■財務諸表

アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう 1775年 - 1783年)はイギリス本国(グレートブリテン王国)と、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13の植民地との戦争である。米国では The American Revolution(アメリカ独立革命)若しくはthe Revolutionary War(革命戦争)と呼ばれ、主に英国ではAmerican War of Independence(アメリカ独立戦争)と呼ばれている[1]。この戦争によって、植民地の者達がイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、政治と立法を主に担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にFX 初心者 という国家の形を取った。 戦争の全期間を通して、イギリスはその海軍の優越性によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵力が数において比較的少なかったために支配地域は限られたものになった。アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやオランダもその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年、フランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことが引き金になり、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終わった。1783年のパリ条約で戦争が終結となり、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。アメリカ合衆国の独立の社会的背景やその及ぼした影響については日経225 の独立を参照。 そもそも、アメリカの植民地人に独立を志向させたイギリス本国による課税の原因は、フレンチ・インディアン戦争(1754 - 1763)による財政危機だった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。 1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法によって新たな植民地課税に乗り出すと、またも反対運動が盛り上がり、1770年、タウンゼンド関税も撤廃となった。だが、このとき茶に対する税が残されたため、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。 1773年の茶法によって東インド会社の先物取引 が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月、入港した船の茶を暴徒が港に投棄するというボストン茶会事件に発展した。 1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地との和解をはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。 一方、1774年に13植民地はイギリスの政策に対する方策を協議するため大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままとなった。 戦争が始まったとき、先物取引 には職業的な軍隊も海軍も無かった。各植民地には地元の民兵隊があり、これを使って自らの防衛に充てていた。独立戦争の前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。この民兵隊の一部を除いてほとんどが開戦時にアメリカ軍に加わった。民兵は装備が簡単なものであり、訓練は少しばかり、通常は制服も無かった。民兵は一回の従軍では数週間から数ヶ月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが、数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、イギリス軍正規兵がいない地域で王党派軍を抑えるために、アメリカ軍が特に有効にゲリラ戦を使った[2]。 イギリス軍に従軍したドイツ人傭兵はヘシアンと呼ばれた。軍事行動を纏めるために大陸会議は1775年6月に正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍の成長は常に動かしながらのことであり、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。アメリカ海軍の起源は、1775年10月13日の大陸会議で大陸海軍のための艦船の建造に承認を与えられた時である。この時、4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の大本も1775年11月10日の大陸会議決議により結成された大陸海兵隊であり、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。11月10日は海兵隊の誕生の日として現在も祝われている。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争の間、約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、一時期に武装した兵士は最大でも9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。このことは戦術的にそうあることが好まれたせいもあるが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった面もあった[3]。 1775年の初期、イギリス軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツの公子から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くははヘッセ=カッセから来ていたので、「ヘシアン」と呼ばれた。この軍隊は公子に雇われた職業軍人という意味では傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた[4]。 アフリカ系アメリカ人は解放奴隷もまた奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者の主人に仕える奴隷を徴募した。ジョージ・ワシントンは人員が不足していたので、1776年1月に大陸軍における奴隷徴募の禁令を撤廃した。ロードアイランドとマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で従軍した[5]。またイギリス軍側には2万人以上の黒人兵が従軍した.[6] 。 ミシシッピー川から東にいた先住民族の大半が戦争に関わることになり、多くの種族社会はどのように戦争に関わって行くかで分かれた。先住民族の土地がアメリカの開拓者からの侵略に曝されていたために、アメリカに抗戦する道を選んだ先住民族が多かった。およそ13,000名の戦士がイギリス側で戦ったと推定されており、その中でも最大のイロコイ連邦は約1,500名であった[7]。 開戦前のボストンは多くの反抗的行動が続き、イギリス政府は1774年に懲罰のためにマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、このような対策に対しても民衆の間に広がった反抗のために、新しく本国から指名された役人が辞めたりボストン市内に逃げ場を求めたりした。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。 レキシントンの戦い1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」("shot heard 'round the world")という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ってこれを蹴散らした。イギリス軍がボストンに引き上げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。 民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた[8]。 1775年7月、新しく指名されたワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった[9]。 手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアのハリファックスの海軍基地まで移動した[10]。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。 ボストンでの長い手詰まりの間に、大陸会議は他所で主導権を掴む方策を求めた。大陸会議は当初、フランス系カナダ人を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。 カナダに向けた2つの遠征隊が発進した。1775年9月16日、リチャード・モントゴメリー准将が1,700名の民兵を率いてタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオールを落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊が600名まで減っていた。モントゴメリー隊がアーノルド隊と合流し、12月31日にケベック市で戦ったがカールトンのために完璧に敗れた。残ったアメリカ軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダはアメリカにおけるよりも多くの部隊を擁し、戦線をしっかりと守った。 アメリカ軍はもう一度ケベックまで押し返すことを試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは今度はアメリカへの侵入を始め、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破った。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦はアメリカ軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反抗を遅らせることができた。 このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論に支持される根拠を失った。「だからアメリカに対して武力を行使することはあらゆる階層と職業の人々に自由に採用され支持されるのだ」[11] ケベックの戦いでジェイムズ・リビングストン大佐の第1カナダ連隊が、またサンピエールの戦いでモーゼス・ヘイゼンの第2カナダ連隊がアメリカ側に付いた。 1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。 イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドとマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦いで大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。 9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦いがおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日にホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫がほって置かれたまま死んだ。